東広島市豪雨大災害 

東広島市、大災害が無いと言う神話が崩れた日
2018年7月25日記
東広島市に線状降水帯と言う集中豪雨が襲った日から18日が経過した。
未だ災禍で苦しむ多数の方がおられる中で、インフラでは山陽本線の線路が当市東端の河内(こうち)で、入野川(にゅうのがわ)に沿って崩落した。当初、全容がわからなかった。SNSでの書き込みも殆どなく唯一 ニュースで大規模に線路下の土砂が崩れた、復旧にはかなりの日数がかかる、との情報だけだった。11日ぐらいからやっとテレビでヘリからの空中写真が公開された。空からの映像しかない。近辺に人が近寄れるところが無い、と言う事であろう。現場は峡谷の様に左右から山が張り出している。
そこで、川面目線で、イメージを描いてみた。今回の豪雨災害を後々まで忘れないように、との思いを込めて。

 


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尚、山陽本線の全線復旧は、11月半ばになるらしい。

以下、今回の経緯をわかる範囲でまとめてみた。
18年7月3日(火)九州北部に被害をもたらした台風7号日本海に抜けた。九州北部豪雨が襲った朝倉市等、ニュース画面で見るにつけ、東広島は災害が無い所、と認識を新たにしたりした。
その翌日4日は、午前中雨が降り、風の強い状態は続いたが、でも午後には晴れ間が戻った。やれやれと思った。元々この月曜からの予報は晴れで、2日遅れの梅雨明けか、と思ったが。
5日(木)
朝から雨になった。途切れることのない大雨である。街では新聞配達のバイクの御老人が途方に暮れていた。荷台には未だかなりの部数の新聞がビニールで覆われて残っている。既に配達の時間は過ぎている。雨宿りをされていたがそのうちいなくなった。どうされたのか、今でも気になっている。雨が小降りの時間は無かった。
台風7号による島根県、神戸、兵庫北部、京都での土砂崩れ、大雨の被害は報道されていた。近くのニュースではない。

6日(金)
福岡県北部や、大阪南部、和歌山県での道路崩落や土砂崩れのニュースが入ってくる。
大雨は止むことなく降り続き、当地にも大雨特別警報が出た。スマホのページに東広島市全域、対象18万人余りに避難指示が出ていた。下に避難場所情報のアイコンが有ったのでタップ。だが、お近くに避難場所はありません、と出たので取りあえず無視することに。だいたい市全域等おかしな話である。地域は限定されて初めて真実味が出る。この市は南北に長く北は中国山地、南は瀬戸内海に面している。
電気水道やテレビ画面も正常、電話も問題ない。それに本当に危険が迫ればサイレン位鳴るのではないか、でもサイレンなんて有ったかな、等思った。東京の友人からは大丈夫か、とメールが入ったが、こちらは問題ない、それよりも大阪の大和川の方が心配や、と返信した。
いずれにしても、この東広島市に災害など全く夢想だにしていなかった。
後で知ったが、この日、朝はまだJR山陽線が動いていたので広島市等への通勤に支障はなかった。JR呉線は既に朝から止まっていた。東広島市にはJRしか通っていないのでそれが止まると通勤通学は致命傷となる。
日中にJRが止まり多数の帰宅難民が出た日でもある。大阪でも交通機関が乱れたそうであるが。東広島市東側の入野川で土砂崩れがあり、川沿いを走っている山陽本線のレール下の土砂が流され、線路が宙吊りになっている、と言うニュースが入ってきた。SNSでは、復旧に1週間はかかるとか、の書き込みがあった。まさかそんなにかかる筈はない、と思ったが、何と考えの甘かったことか!
7日(土)
未明、瀬戸内海の怒和島で土砂崩れ家屋全壊、朝、佐賀県ではJRが流入した土砂で列車が脱線、広島安佐北区の住宅地に土石流、竹原市松山市でも住宅地に土砂流入、昼には真備町の川氾濫、広島軒の瀬戸内海に面した坂町で山肌崩落、住宅ちに土石流、海にまで家屋流される、等々痛ましい豪雨被害が報道されている。道路は山陽道をはじめ各地で物流が寸断された。殆ど全ての申告な大災害が7日(土)の未明に起こっていたと言うことになる。就寝の時間帯である。
だが、東広島市の報道は極端に少ない。と言うか被害が広範囲過ぎてテレビなど東京のキー局はただ単に被害の大きな見えやすい地域しか報道しなかった、と言えるかもしれない。SNS でしか近くの状況は分からなかった。
特に交通機関への影響に関する報道は極端に少なかった。もしこれが東京だったら恐らく分刻みで全国放送されるであろうが。
この日、朝には大雨がやっと止んだ。その後は雨、時々曇り。
朝、最寄りのJRの駅周辺、其処は何時も大雨の時は冠水する。案の定、通行止めとなっていた。床上浸水の家屋がかなり出たらしい。80㎝。腰までつかったそうである。



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スーパーの商品棚はガラガラであった。朝にトラックが全く到着しない。
8日(日)
朝に雨が残ったが日中はやっと安定した曇り空になった。
東広島市の西側に隣接する熊野町の豪災害を報道している。
山陽道が土砂崩れで不通、他の国道もあちこちで寸断され、物流は混乱、と言うよりも完全停止の状態になっているらしい。
駅前は未だかなり冠水していて歩いてはいけない。消防車が入って水を抜いていた。市内では国道2号線の八本松西で大規模土石流。並走しているJRの線路も含め完全に土砂に埋もれている。
朝に、給油所からガソリン販売停止のメールが入った。余り車のガソリンが無かったのでパニックにある。幸い、午後には入荷したという連絡が有ったので直ぐに注ぎにいき、事なきをえた。このガソリン不足は1週間ぐらい続いたようである。中には緊急車両限定、と張り紙をした給油所も見かけた。
9日(月)
陸の孤島化した東広島市。JRでは早朝から動きが有った。新幹線丈は無傷だったので、山陽本線西条駅から新幹線の東広島駅まで無料の代替バスの運行が開始された。これを乗り継ぐことにより広島、三原方面とそれ以遠の交通は何とか確保された。だが東広島市内から如何にして西条駅に行くか、と言う問題は残る。全てが西条駅周辺に住んでいる訳ではない。
10日(火)
マツダ本社のある府中町で榎川が氾濫して、周囲の住宅地に濁流が流れ込み冠水した。上流から流れてきた流木が橋にぶつかり水をせき止めたらしい。予測のつかない災害、他にこのような危険な所はないのかな?

Trip to Tomonoura, Hiroshima

Hello This is greeting from Nakano(中野) in Japan.
My first blog wrote with English. Sometimes I will try to make English version.
I hope it can be helpful for your understanding of West japan.
In this spring, I visited Tomono_ura (鞆の浦) located southern area of Hiroshima (広島) where also facing to Setonaikai(瀬戸内海).
Please refer and comment if you have any opinion. Thanks for referring my blog. Follows are my record about it.
Wrote June 2018
Tomono_ura (鞆の浦) 2018 mar 30th (Fri)
I arrived at Tomono ura(鞆の浦) BUS TMNL before 11am. Weather is good but a little hot.
Located at about center of Setonaikai(瀬戸内海), This port is very famous because of good scenery and with long long history over 1000 years.
Since my last visit here, time has been passed more than 5 years already and during that, there was a lot of changes, especially number of foreigner rapidly increasing, even it is weekday today.
Recently because of Inbound booming, many people from Asia, Europa and America with tour, group, and private, they make this famous port as very atractive place.
Of course Japanese visitor is also many as well as who has interesting to see historical things here.
Time was too early to the lunch, so I visited Taichoh_rau(対潮楼) where located around 10min walk from Bus TMNL to the gate of the Temple. It is located at hill side, facing to the south direction which can observe famous IsIand Sensui_jima(仙酔島) from best angle thorough open window of the temple.

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Entrance fee is 200yen/person, It is required to shoes off before entering. In History this Temple was used as accommodation of Korea Delegate朝鮮通信使)during Edo era about 350 to 300years ago. In this period they stopping 12 times here on the way to EDO_era(江戸時代) regularly.
A staff of the delegate, he called this scenery as “Best view in Japan” (日東第一形象). Yes, it is no-doubt how it is so attractive scenery if I am alone here, I might be sitting long time in front of this view with thinking nothing. But unfortunately many people at that time.

Near Sea side, I took lunch in See food restaurant, very small but comfortable, big window is facing to the sea where can be seen (Sensui-jima). Major industry here is fishing especially “BREAM”(鯛), so I must order and eat it.


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7 kinds of Dishes are all cooked with BREAM which seems too much for aged people like me.
After meal, I walk toward another famous Temple “Iouh-ji” (医王寺) where located at hillside of the mountain. About 15min, of ascent reached to the temple, here is also best scenery to look down the port and Sakura(桜) blooming.


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Next destination is Museum of “Iroha-maru” located at pier of Tomonoura_port (鞆港).
At tip of pier, there is “Night right house” (常夜灯) , it is Land mark to approach to the museum.


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“Night right house” is in the photo located at L side.

By the way R side in photo, it is historical quay(岸壁) made with many steps with stones called as Steps Pier “gan_gi”(雁木) designed for landing small ships. Because of a reason to adjust high tide and low tide, deference between high and low is reached to approx, 4 meters. Photo is shown at low tide. This type of the Pier can be seen anywhere in Setonaikai. Also can be seen in other port with the same reasons.
In early Meiji_era about 160years ago, at offshore here, “Iroha-maru” (いろは丸) was sunk. In fact very famous Japanese warrior (武士) “Ryouma Sakamoto” (坂本龍馬) who sprinted and made new era of “Meiji” from “Edo” around of 170years ago was onboard. Many relics was picked up from the sea and kept in the museum.

Group of Eastern people was gathered here when I visited. I took a rest with drinking Beer since it is very hot weather.
Tour conductor asked me the location of a shop with fluent Japanese, so I answer her with shown map. Of course with Japanese. Shortly after they moved to another attractive point near here accordingly.
That is all today. After that I walked to Bus TMNL takes about 15min, time.
In “Tomoura” Road is very narrow though traffic is very heavy.
I also must be very careful to walk down, especially after drunk, it is very dangerous!


Additional photo (watercolor painting) is drawn 15years ago.


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In front is Tomono ura (鞆の浦) and on this side is isIand Sensui_jima(仙酔島)
(end)

似島 原爆、もう一人の証人

宇品港沖合の似島、戦争の歴史と共に
2018年6月 追記
似島は是非もう一度訪れたい島の一つです。と言うのも2015年には島の西側の港しか行っていないからです。広島湾には大戦の傷跡が今でも多数残っており、保存されている訳ですが、この島もしかりです。平和を考えるための施設が島の東側にあります。原爆で被災された沢山の方が治療のため運び込まれた島。そして、その甲斐なく亡くなられた方の慰霊碑も存在します。

2013年4月27日
宇品港(広島港とも言う)の3キロ沖合に浮かぶ似島(にのしま)に渡りました。この港から見ると三角形で、安芸の小富士ともいわれているそうです。もっともほかの角度から見ると何の特徴もない普通の島になってしまうのですが。


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船で僅か20分のミニミニクルーズ。
おりしも当日は島の清掃に参加するボランティアの若い女性たちで船は結構満員。あとはリュック姿や自転車で島へ渡る人などさまざまでした。島の人口は千人余り、でも広島市に近いので、身近なリゾートとして旅館や公園などよく整備されています。島は一応広島市内となっています。
他の島々は殆どが極端な人口減少に悩んでいますが、ここは少し恵まれているのかな、と思いました。
似島の山、安芸小富士は標高278メートル、頂上は南側に芸予諸島を一望できる三百六十度の見晴らしの良い展望台になっているそうで、又高さも手ごろなので登る人も多いようです。
フェリー、第十こふじ は片道380円、乗船時に愛想の良い係員に現金で直接支払います。船内はきれいで喫煙室にも大型の窓が有り、快適なソファーが備えられていて僅か二十分の船旅には勿体無いような設備でした。
尚、船は完全な双頭型で、347総トンです。若し、車両甲板が密閉されていたら、恐らく八百総トン位にはなるでしょうか。ちなみに、国際総トン数では密閉していない空間も総トン数に含みます。
即ち日本の中古フェリーがフィリピン等に輸出されると、殆ど船様が変わらないのに総トン数丈が倍近くになるのはその為です。船に限らず大きさ等の表記方法はややこしいですね。
十二時半の出航でしたが、港の灯台を出て暫くすると船の後方に意外な船を見つけました。イギリスの小型クルーズ船、CALEDONIAN SKY(4200総トン)です。どうやら同時刻に港の東側の一万トンバースを出航したらしく、昼食時と言う事もあり、後部のリドデッキには結構な人の群れが見えました。今の基準では小さな船ですが、さすがに欧米のクルーズシップと言う雰囲気が漂っていました。
船はこちらの船のウエーキを横切って宮島方面に舵を取っていたようです。
厳島神社海上の大鳥居でも見ながら、次の目的地に向かったのでしょうか?


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スケッチの背景は広島市街です。
さて、似島ですが、船が着くと乗客たちはあっと言う間に雲散霧消してしまい、つかの間の喧騒がすぐに閑散とした小さな島嶼の港に戻ってしまいました。
広島港で頂いた島のガイドのパンフを見ながら、先ずは昼食と思い、みなと食堂と書かれた路地の小さな、如何にも歴史がありそうな店に入りました。八十位?のおばあさんが一人でテレビを見ながら食事中。昔は二人でやっていてそれなりにお客さんが入ったそうですが、今は閑散としているそうです。そういえば、さっきフェリーを降りた人たちは一体何処で食事をしているのかな、とふと思いました。
瓶ビールと丼物をいただき、いい気持ちになったところで、港の岸壁からスケッチをしました。


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画面右は、係留されている第八こふじ です。船齢二十五年ほどの船で、今はピンチヒッターとして使われているものと思われます。
正面の山が安芸小富士です。

広島港から見ると三角形ですが、前述したように他の角度から見ると普通の山になってしまいます。
帰りのフェリーまで時間があったので、港の正面にある喫茶店に入りました。こちらは六十前後の若ぶりのおじさんが一人でやっているカラオケ喫茶です。
以前は、島で鉄工所を経営されていたそうです。聞くところによると、其のころはこの島が砂利の積出港として経済的に潤っており、砂利運搬船の修理などで、鉄工所の仕事も成り立っていたとか。その後、需要が関西から関東に移り、多くが木更津の方に船ごと引っ越したと言う事です。
現在、毎日曜には島のおばさん達が集まってカラオケで楽しまれていると聞き、何となくほっとした気持ちになりました。
この店で、コーヒーとお酒をいただき、似島での予定は終了です。
戦中戦後は歴史に翻弄され、必ずしも平穏な島では無かったらしいですが、今は静かな平和な佇まいでした。

 

恵美須町交差点で

恵美須町で堺の名酒、千利休、こんなところにこんなお酒が!
2018年6月追記
先ず、18日の地震でお亡くなりになられましたご遺族の方々に謹んでお悔やみを申し上げます。又、被災されました方々には一刻も早く元の生活に戻れますよう心より願っております。

以下、本文です。
外人客であふれ返る大阪ミナミ。それを支えるのは地元の人たち、とその歴史、文化。一般的にミナミと言っても一様でない。難波界隈では町はある程度整然としている。だが、心斎橋、道頓堀、新世界 と順に秩序が変わっていく。似ているようだが歴史文化が少しづつ異なっていく。
なお、後述の主人公の居酒屋、結局店名は分からず。勿論、WEB検索しても全く出てこなかった。
来年の新年会、又行ってみよう。若し未だ有れば、の前提付きで。
以前、宮本常一氏の著書の中で、経済は文化の下僕でなければならない、と書かれていた。好きな言葉である。今、大阪はそれを実践しているのかもしれない。
2018年4月9日(月)本文
ここは恵美須町交差点の角にへばりつく様に小さな小さな、店の名もどこに書いてあるのか、入り口がどこに有るのかも良く分からないミニ居酒屋である。阪堺線駅舎の角にある。
歩道に少しはみ出して外には粗末な傾いたテントと、その下に歪んだテーブルとパイプ椅子が乱雑に置かれている。俗にいうオープンカフェであるが?
朝晩は未だ肌寒いのか古い達磨の石油ストーブも置いてある。通天閣本通り入口の向かいにその店はあった。このような店には入りたくなる。
JR新今宮駅東出口より堺筋を歩いてここまで来た。戎橋での新年会、と言っても4月だが、その時間には少し早い。ので、どこか一杯飲めるところは、と、きょろきょろしていたら目についたのがこのスタンドバー。何せドアと言っても幅50センチ前後のぼろいもので、どう見ても勝手口にしか見えない。尤も他国言語のメニューが至る所にベタベタ貼ってあるので、それだけがこの場所の意味を伝えていた。午後の5時頃の事である。
勝手口のようなドアを開けると、細長い店内で若い店主が窓のふき掃除をしている。カウンターが奥に伸びていて、人が座ったらまずその後ろを通り抜けるのは不可能と思われた。
「こちら、お酒いただけます、」と一応聞くと、笑いながら、「ええ、何でもありますよ、何しはります?」 との事で。
「じゃあ、何でもええから熱燗で一本もらえます、外でやで、外のテーブルに持ってきて!」
この場合、店内のカウンター、という選択肢はゼロだった。何時に開店かは知らないが、雰囲気は開店前。
外の壊れそうなパイプ椅子に足元に気をつけながら座る。前に傾いたテーブル、そして左足元にストーブ。
店主が お盆に乗せて銚子、おちょこ、つまみ そして灰皿を持ってきた。かれが誇らしげに言った。
「これ、千利休ですよ、堺の泉酒造の。ええですよ、じゃ ごゆっくり!」
酒をちびりちびり頂きながら、通天閣本通り入口の雑多な人の群れを観察する。外人、西洋人、東洋人が忙しく行き来している。それに交じってこちらも多様な日本人。恵美須町の交差点、警官が信号無視を見張っている。
自転車、歩行者は赤信号でも皆渡っている。外人さん達もそれについて渡っている。この辺、下町、警官がそれを咎める風もない。
小さなスケッチを走り描きする

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昔、南京の交差点で、歩行者横断マナーキャンペーンが実施されていた時の事。中心大酒店近くの交差点で、警官が自転車のおばさんに説教していた。
多分、信号を守りなさい、と言っているのか。それに対して、おばさんが口答えしている。そして面白いのは次に起こった光景である。警官の背中をすりぬけて若いアベックが交差点を渡って行った。勿論、赤信号で。
あの時の光景を、ふとこの恵美須町交差点に重ね合わせた。
「おんなじや、、」と感慨深く思った。ここは新世界の入り口、恵美須町
阪堺電車のターミナルでもある。難波ではない。歩いて10分で難波である。

 

 

日生港 カキオコ

日生(ひなせ)、大阪と広島のど真ん中 お好み焼きに広島の牡蠣が入って“カキオコ”になる

2018年6月追記 2017年10月備前焼祭りが伊部(いんべ)で有り、道中日生駅を通った。 FT(フェリーターミナル)の向うに巨大な日生大橋が完成していた。4年前には橋げたが一部完成していただけだった。

2013年3月19日(火) 広島から大阪への往路、岡山県備前市のJR赤穂線日生駅で降りた。降りたところは新港で、FTである。小豆島の大部(おおべ)に行くフェリーが発着している。新港の向かいは海を挟んで鹿久居島日生諸島最大の島である。 日生は魚市場で有名で関西から来られるお客さんも多いとか。JR西の新快速は播州赤穂駅まで来ている。そこからは岡山行に乗り換えて4つ目の駅。

が、今回の目的地は日生港、日生諸島への連絡船が発着する定期船乗り場である。途中、下の道を選んだ方が楽なのであるが、折角なので山頂からの景色を見ることにした。山腹に大きく“ひなせ”と書いてある山を目指す。

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芝生や雑草を刈り込んで作ってあるアートである。標高126メートルの楯越山(たてごしやま)、よく整備されていて、旅行者には是非とも、ではないが、出来たら訪ねたいスポット。目的地はこの山の向こう側になる。緩やかな海沿いの車道を登っていく。 山頂の鹿久居島を見下ろす展望台に案内板が有った。日生大橋の完成予想図が設けられていた。本州から鹿久居島への大橋である。

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橋が出来たら、又島に渡る定期船が無くなるのかなあ、と思うと寂しくなる。 大橋は数年後には完成するとか。ああ、又船の航路が無くなるのか、と淋しい思いに駆られた。橋が有れば一般的には島の人々の暮らしは楽になると思う。 だが、島に橋が出来て、島の人口が増えた、と言う話は残念ながら聞いたことが無い。橋と船が共生出来る道はないのだろうか?

山頂からの下りは、密集した民家の間の細い階段を降りていく。来た時とは違い急な坂である。途中、家々の間から港が垣間見られる。係留された漁船等を見ながら下って行く。

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ここの船着き場は、雁木(階段状)にはなっていない模様。余り潮の干満差が無いのか 或は撤去されたのか? 船着き場は防潮壁で仕切られ、その海側は漁具などが散見されビット(船の係留装置)には漁船からのロープが巻き付いている。近くには前述の魚市場が有るらしい。 中ほどに定期船の桟橋を見て道なりに行った所、左に回り込むと、スーパー パオーネが有った。その駐車場際の波止に陣取りスケッチブックを取り出した。

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スケッチで正面に停泊するのは、日生諸島最南端の大多府(おおだぶ)行きの船、大生汽船(たいせいきせん)の“みしま丸”である。自転車、バイク、小荷物 それに旅客を運ぶ船。瀬戸内海の島々を結ぶ標準的な、但し自動車を載せない小型の連絡船で、中々きれいな船容をしている。

ところで、絵の奥にある山は、い先ほど上った楯越山(たてごしやま)。駅からここへの途中、右上の展望台から下って、この場所にやってきたことになる。

JRの駅は、山の真後ろにあり、又小豆島の大部港に向かうフェリー乗り場もそのJRの駅側にある。即ち山を一つ越えてこの場所にやってきたと言うことに。大した山ではないが満足感がある。 日生の中心街はこちらの定期船乗り場側に有るので、向こう側はどちらかと言うと最近開けた町、先ほど新港と書いたが、駅前港とも言うらしい。

帰りは下の道を通って左手に魚市場を見ながら駅に向かった。10分少しの道のり。時間的なものもあると思うけれど、町中に人影を見ることは殆どない。 過疎化は、島だけでなく、ここ日生でも進行しているようである。

阿伏兎観音 人々の祈り

阿伏兎観音 2018年6月  絶壁のお堂に航海の安全と来世への橋渡しを祈る人々

2013年8月21日、念願の阿伏兎観音に行く機会を得た。 沼隈半島の千年町から歩いて海岸に出、2キロほど海沿いの景色の良い道を行くと小奇麗な旅館街に入る。門前町かも知れない。突当りの海岸に沿った石段を上がると門をくぐってお寺の境内に入る。 盤台寺(ばんだいじ)。案内によると、開基は平安時代で十一面観音をご本尊とし戦国時代に有名な毛利元就が再建したとある。小高い岬の突端に、観音さんへの入り口がある。拝観料を払って、狭い通路をかき分けて本堂に至る。堂内の朱塗りの階段を上がると廻廊になっている観音堂に至り、見事な瀬戸内海の眺望が広がる。ぐるっと回ると眼下に阿伏兎の瀬戸、遠くに燧灘(ひうちなだ)が絶景となって目に飛び込む。

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廻廊の床は外側にかなり傾斜していて、恐らく波の打ち込み等に配慮しているのであろう。 その廻廊の際から北側に下る岩盤を利用した石段があり、かなり波打ち際に近いところまで下って行ける。 見上げれば、あの広重の描いた六十余州名所図会の備後阿伏門観音堂の絵構図が見事に浮かび上がった。 以前展覧会で1853年に広重はこの絵を描いたとあった。それが一体どこから描いたのか、或は瀬戸内海を行き来する船からか、等と推察していたが、そうでは無かったのである。 実は、それを確かめるのが今回の訪問の一つの目的であった。 観音堂を見上げる突端は、小高い巨岩で、石の祠が丁度影を作ってくれている。 スケッチをする場所をここに定める。あまりに天気が良く、他に影のある場所が無い。 写真は、別に陰ひなたは苦痛にならないが、スケッチは、一度居を構えると一時間はそこで踏んばらなければならない。どこで描くかは大きな問題であり、絵の成否にも影響する。 或は、今日のよう絵の構図よりも優先される事もある。

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さて、この阿伏兎の瀬戸であるが、水路は幅500メートル位、潮流は瀬戸と言うだけあってかなり速そうだが、数千トンの船はかなり通っている。来る途中の旅館街の沖を通る船は、この観音堂をいつも見ながら航行しているのである。何とも羨ましい限り。 願望として、将来、もしこれら瀬戸内海の景勝地を東西に巡る一万トンくらいのクルーズ船が実現したら、是非とも航路にこの阿伏兎の瀬戸を加えるべきであろう。

だが他方、昔、この荒々しい瀬戸を小さな舟で行きかった人々は、どんな思いで絶壁の上の観音堂を見上げたのであろうか? 航海の安全を祈願したのは当然として、来世への橋渡しとしての観音さんに願をかけたのではないか、ふと今この瀬戸とお堂をスケッチしていた自分を思うに、そんな光景が見えてきた。