鞆の浦と牛窓、朝鮮通信使ゆかりの浦

鞆の浦牛窓、どちらも朝鮮通信使ゆかりの港町。歴史的に朝鮮通信使を介して、似たような歴史を辿った岡山県瀬戸内市牛窓と、広島県福山市鞆の浦
現在、旅行者が急増している鞆の浦と、逆に寂びれつつある牛窓との比較を乏しい知識を駆使して整理してみました。高台から見下ろした両港の俯瞰絵図をまず見てください。


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牛窓港、手前から奥に伸びる700メートルの波止が印象的。

港東側高台にある荒神社から

 

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鞆の浦、右手中央の波止から港をぐるっと取り囲むように架橋が計画されていた。

山腹の医王寺から

 

〇似ている要素
瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦。1000年の歴史を持つ重要な汐待の港であり、今は景勝地としても有名である。過去何度も来たことがあるが、今年の3月に訪れたときには随分と以前とは様変わりしていた。旅行者、特に外国の人が多かった。これは昨今、日本のどこの観光地でも見られる傾向と思われる。
福善寺(ふくぜんじ)の対潮楼、高台にある真言宗のお寺の一部。海側に張り出して設けられた大広間で拝観料は200円、靴を脱いで海側への細い通路を行くと大広間で、突当りはほぼ全幅の見晴らし台になっている。「日東第一景勝」と、300年ばかり前、朝鮮通信使一行の従事官が筆にしたためた見事な景観が広がる。柱と梁とが長方形の額縁となりその中に瀬戸内海を背景にした仙酔島弁天島が絵のように収まっている。


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この福善寺は朝鮮通信使の高貴な方、即ち三役の為の迎賓館として使用されたらしい。


同じように通信使の宿泊場所となった牛窓の高台にある本蓮寺境内からも風光明媚な瀬戸内海を眺められ、この点も鞆の浦と事情は似ている。
現在にいたるまでどちらの地にも鉄道は通っていない。江戸時代には元々鉄道が無かったわけで、海路が中心だった時代故、鉄道網が張り巡らされている今の時代と較べると当然色々な面で不利な情勢となっている。


〇風光明媚な瀬戸内海の浦を通信使の宿泊先として選んだ背景
当時通信使の人たちは何を思って江戸に向かったのであろう。道中は各藩、特に対馬藩などで警護され又いろいろなもてなしをしたのであるが、あくまでも目的は江戸幕府への挨拶を兼ねたご様子伺いであったはず。
個々の人々の思いは、長い道中や遠い祖国に残した家族の安全祈願、であったと思う。江戸に行きたくて随行したものは一部を除いて居たとは思われない。さらに難波津からは厳しい陸路だったので、この瀬戸内海は歩く必要のない彼らにとっては唯一の心休まる道中、ではなかったか?
尤も、江戸幕府がこの区間の陸路を認めなかった、と言う背景もあるらしい。


〇違う要素
港での違いと言えば先ず、雁木(がんぎ)構造の船着き場が、牛窓には無くて、鞆の浦にはあると言う事。雁木とは、階段状に造られた岸壁で、潮位の高さに対応して舟が接岸できるようにしたものである。


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牛窓では、雁木の必要が無かったと言う事かも知れない。
瀬戸内海の潮の干満に両者では大きな差がある。瀬戸内海の真ん中付近、広島の笠岡諸島から芸予諸島にかけては潮の干満差が4メートル前後に達するのに対し、牛窓では2メートル前後と、半分の潮位差になっている。舟の接岸が容易なように、前者では雁木構造の岸壁が多くの浦で見られる。
次に、牛窓はマリンスポーツのメッカであり、ヨットマン憧れの海だそうである。又、山側には有名なオリーブ園があり、沢山の観光客がシーズンには訪れる。牛窓の南には海水浴場で有名な前島が有り、牛窓港からフェリーが頻繁に発着している。港の俯瞰絵図を見ても、鞆の浦と較べて洗練され沢山の綺麗なホテルが見られるし、海にはヨット、そしてホテルリマーニュの周辺では街路樹はヤシの木を中心に良く整備されている。
鞆の浦が歴史を中心に良く保存されている浦であるのに対し、牛窓は地中海の明るい雰囲気が漂う。
でも先日牛窓を訪れて思ったのは、地理的な要因が多いけれど、人の流れがあちこちで途切れて、中心地であるべき牛窓港までなかなか人々が来てくれなくなったと言うことであった。
有名なオリーブ園を訪れる人は多いが、別に牛窓港までくる必要は無いし、マリンスポーツの人は、陸に上がる必要が余りないのかもしれない。美術館は港から結構離れていて、歩いて散策するには少し遠い。備前焼の本拠地も近いけれど、ここは備前市ではなくて瀬戸内市である。
一方、鞆の浦は、昨今沢山の旅行者で潤っている。多様な歴史遺産が港を中心にコンパクトに集まっている。牛窓と較べ山にぐるっと閉じ込められた狭い空間に殆どの施設が有るので歩いて当然坂道は多いが、距離は知れている。歩いて移動する旅行者にとってこれは魅力なのである。要は、わかりやすい、と言う事か?
過日、鞆の浦架橋が広島では大きな話題となった。町の中を通る狭い交通量の多い県道の危険な状況を避けるため、港の海側に架橋すると言う計画が殆ど決まりかけていた。それは目の前の課題を改善する効果はあったが、結局、歴史的な景観を優先して、県知事は山側にトンネルを通す事で最終決着させた。住民の多くの要望は橋であったそうである。だが他方、取り返しのつかない歴史遺産の破壊がかろうじて防げた、と言う事でもある。
歴史的な遺産の保全は、今住んでいる住民の方の犠牲の上に成り立っているとも言える。これはジレンマであるけれど、鞆の浦に限って言えば、昨今の観光客の増加は、歴史的景観の保全が住民の方にとっても結果的には正しい選択であったと言っていいと思う。


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港を囲う防潮堤の辺りに巨大な架橋が計画された。景観が失われるとの大局的な観点から中止された。


対照的に牛窓は、近代的な文化を取り入れて発展してきた港である。岡山県の総合的な長期復興ビジョンがここに有れば、美しの窓と言われた牛窓には必ず未来に向けた可能性が有ると思う。バスターミナルやメイン道路に沿って、営業を辞めた食堂などの廃屋が多々見られた。それらは早急に整理して、緑地にでもしないといけない。車で来る客はともかく、わざわざバスで来た旅行者を着いた途端に幻滅させるような要素は先ず取り除かねば! 町中の案内図も無かったように思う。


〇前回、牛窓については別のブログでも紹介しているので、今回はどちらかと言うと鞆の浦が主体の記述になってしまいました。

 

豪雨災害から5ヶ月、東広島龍王山の今

豪雨災害から5か月、東広島、西条龍王山の今

7月6日の豪雨災害から5か月、今回龍王山で見た惨状は未だ中国地方や四国の至る所に残されていると思われる光景を垣間見た思いが致しました。
災害にあわれた方々には一日も早く元通りの生活に復帰されますことを祈っております。行政も頑張っていただきたいと切に願うばかりです。

 

〇先週、東広島市西条駅の北にある標高575メートルの龍王山に登った。
山の中腹には憩いの森があり、登山も含めて文字通り市民の憩いの場となっていた。今、駅の北口から駐車場に向かう二車線の道路、公園入口ゲートは未だ閉じられ、立ち入り禁止の大きな札が立っている。
他方、この山系は周りに沢山の登山道入り口が有り、それらは別に立ち入り禁止とはなっていない。要は自己責任で、登りなさいと言う行政の優しい御配慮であろう。

憩いの森は公園や多目的広場、キャンプ場などが整備されている。それぞれの登山道は、豪雨災害の影響はなく、普通に頂上まで登ることが出来た。

この山は独立峰ではなく東西に広がる龍王山山系となっていて、尾根伝いに公園関係車両の為の舗装道路があり、この自動車道を通っての登山も出来るようになっている。

 

〇帰りは、この自動車を通って下山した。
何カ所かの崩落はあったものの、一番の惨状は、山系の中央辺り、丁度憩いの森公園に至る部分の土砂崩れであった。


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この辺りは、V字型の谷となっており、最も高い尾根から200メートル近い落差で土石流が一瞬にして下に押し寄せたと思われた。
元々、それには配慮されていて、砂防ダムが3,4カ所設けられてはいたが、あちこちの災害と同様全く無力であった。
尾根伝いの自動車道は部分的に完全に崩落して、迂回する暫定の車道が造られていた。

 


憩いの森まで下りると、公園の遊具の破壊が痛々しく目に入る。

 


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多目的広場の広場は整地されていて復旧が近い、と感じた。だが、キャンプ場は土石流が流れ込んだままで、暫く復旧は出来ないであろう。来夏に間に合わせるのかな?


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下から見上げた土石流の現場

 

何れにせよ、この惨状が元通りになるにはどれ程の月日がかかるのであろうか?
一部は、記憶遺産として残される事になるかも知れない。

牛窓と 朝鮮通信使

牛窓で見た朝鮮通信使の記憶遺産

あなたは朝鮮通信使を知っていますか?
この素朴な疑問に10年前の自分は答えられなかった。
今でもこの問いに答えられる日本人はそう多くは無いと思う。
先日、牛窓港を眼下に見下ろす荒神社の境内で出会った、姫路から来たと言うご夫婦に同じ問いを投げかけてみた。

「いや、知らないです。今日は牛窓の美術館に来ました」

との答えだった。

11月23日、昔懐かしい牛窓を訪れた。45年ほど前には、油絵の道具をもって仲間たちと良く訪れた地である。
今回は、朝鮮通信使の歴史を見るべく海遊文化館をメインにしてやって来た。既に過去の記憶は殆ど消えているし、当時は通信使の歴史など全く関心外だったし、で見るもの全てが新鮮であった。が、半世紀を経た今日の牛窓の衰退をも見ることとなった。

目的が変わると、色々と別のものが見えてくる。
港の東側の小高い丘にある荒神社の境内から見下ろす牛窓港は綺麗だった。
10年前から、瀬戸内海の島々を訪ね始めた。そのあちこちの浦で、朝鮮通信使の痕跡を見るにつけ、徐々に関心が高まっていった。
それまで、60歳の定年までは海外の仕事で殆どの時間を費やし、瀬戸内海と言う別の世界を見出すことが出来なかった。


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スケッチに描いた荒神社からの俯瞰図。300年前の江戸時代に築かれた、まっすぐに伸びる700メートルの波止が印象的である。ホテルやヨットハーバーが背景の山々に程よく溶け込んで見るものを魅了する。
この波止も通信使一行、それに多数随伴した各藩の舟を波から守るために造られたらしい。

〇11月23日
バスで終点の牛窓港に着いたのは12時前。バスを降りると潮の香りが漂い、海に来たと言う実感が伝わる。降車したのは自分一人丈だった。ホテルや飲食店がバスターミナルを囲んでいる。でもほとんど閉まっている。“何年何日をもって営業を終了しました、”と言う張り紙をしている真新しい店もあるが、殆どは見た丈で廃業してしまったのが分かる。
海水浴シーズン丈営業するところもあるかもしれないな、と思いながら、地図にあった海岸の縁のラーメン店に向かったが、矢張り廃屋であった。ホテル リマーニの近くの海鮮料理店が一軒丈開いていたのでそこで昼食をとった。
店は祭日と言う事もあり、お客さんで結構繁盛している。

〇本蓮寺
通信使ゆかりの本蓮寺に向かう。長い階段の上に門があり広い境内に通信使が宿泊された見事な客殿があった。更に少し階段を上ると、本殿、鐘楼、三重の塔などが有る。 
よく比較される広島の鞆の浦、福禅寺よりは遥かに広いと思われた。
海側に沿って高さ1メートル程の土塀がありその向こうに瀬戸内海を望む。
左手に前島、正面に小豆島が横たわる。


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通信使の記述としては、客殿の案内板に簡単な説明書きが有った丈だった。

朝鮮通信使資料、牛窓海遊文化館にて
ここは旧警察署の立派な木造の建物で、入ると直ぐに二人の館員に暖かく迎えられた。何事も第一印象が全てである、と自分は思っている。


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ここで、初めて通信使の実際の歴史に触れることが出来た。
館員の女性の方に牛窓の通信使の歴史丈でなく全体について詳しく説明してもらった。展示は年代順に、文献と絵図を中心に分かりやすくされていて、非常に好感の持てる博物館である。

朝鮮通信使歴史の航程
江戸時代、12回に渡り江戸幕府の将軍が変わるたびに、儀礼として300から500人の使節団が朝鮮王朝から江戸に派遣された。

但し、最初の3回は、徳川幕府との対等関係の約束に従って、豊臣秀吉の時代、文禄慶長の役に捕虜となった人たちの帰還の為に派遣されたと言う事らしい。
ここでは海路についてのみ記述する。釜山から3~4隻の船団に分乗した使節団には、対馬藩の船団が釜山から加わって瀬戸内海に入った。更に経由地の各藩の舟が加わり大船団となって下関から多数の瀬戸内海の浦を経て、大阪に至ったとある。其処からは淀川を30石舟で登り京に至って海路は終わりとなる。

日本サイドの出費もかなりのもので、対馬藩を始め道中の各藩にあっては、宿の手配など班の財政を極度に圧迫したとある。参勤交代と同じ各藩の財政的な疲弊を幕府は目論んでいたようである。
牛窓では、最初の絵にあるように、700メートルの波止まで整備したのである。
然し、それ以上の朝鮮王朝が経済的な又、人的な負担を強いられたことは想像に難くない。半年に及ぶ道中、随行者は家族を国に残し、道中、人的な犠牲も多々有った。各所に随行者の残した史があり展示されていた。

〇通信使の目的
表向きは親善であったが、実際にはスパイの役割を担っていた。有史以来、朝鮮半島に日本は幾度となく攻め入っている。古くは神功皇后三韓征伐にまで遡る。
使節団には、絵師、楽師等多数随伴していて、日本の様子を逐一描きとめ、不穏な動きが無いかを見ていたのである。
だが、沿道の楽師を先頭に行く大行列を好奇心をもって日本人は歓待したという。当時、朝鮮は先進国であった。
又、元々西日本には渡来人及び子孫の方が多く、その人達の盛大な歓待をも受けたろう事は容易に想像がつく。

〇日本からの使節
対等な国と国との関係が前提だったので、余り資料は無いが日本も使節団を送っている。然し、前述したように、日本への警戒心から朝鮮王朝は、釜山以北に入る事は認めなかったと言う。

〇現在のギクシャクした日韓関係に思う事。
江戸時代に限っては、日本が朝鮮に攻め入ったことは無かった。江戸幕府は約束を守った。
でも、明治以降、再び歴史は繰り返されて、20世紀初めには国を併合すると言う暴挙にまで至った時期もあったのである。
他方、朝鮮半島の国が日本に攻め入った、と言う歴史は自分の知る限り一度もない。
現在のギクシャクした日韓関係を我々日本人が思うとき、今一度、長い歴史を少し振り返って、その上で考察してみてはいかがでしょうか?

道後温泉とTATTOO


10月の中旬、海路 呉から松山のパック旅行に参加した。その夕方、道後温泉本館の神の湯で新鮮な経験に遭遇した。ここは刺青がOKなのである。
2千年の歴史を誇る道後温泉本館聖徳太子も入浴したとか伝えられている日本屈指の温泉。

僕は元来公共の銭湯は好きではなかった。27まで大阪の南河内の長屋で育ち、銭湯に通った経験は余り心地よいものでは無かったからかも知れない。


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そして今、この神の湯、引き戸を開けて風呂場に入った瞬間のイメージは2千年の歴史を感じさせる立派なものであった。高い天井に広い浴槽、芋の子を洗うと言う程では無いにしてもかなりの入浴者が湯煙の中にいた。
洗い場で先ず体を洗うべく座った。一つ隣の大男、身体を洗っている。一見して西洋人、少し動作が普通より大きい。自然と声が出た。
何処から来たんですか?と英語で聞いた。
「ドイツです」と彼は笑いながら日本語で答えた。僕はそうですか、と英語で答えた。そして彼の太い腕には見事な刺青がびしっと彫られていた。
頭を洗った後、横を見たら彼は既に居なかった。綺麗に湯具は整頓されてあった。残し物は無く、湯桶はきちっと風呂椅子にうつ伏せに置かれていた。

でも思った。日本は何処でも公共の風呂は、刺青の方お断り、ではなかったのかと?
風呂場を出たとき注意書きを確認した。 “迷惑行為はお断りします” とは書いてあったが、刺青の言及は無かった。

ホテルに帰って、夕食後ホテルの大浴場に行ったとき、再度確認した。“刺青の方、お断り” とはっきりと書いてある。一体この差は何だろうか?

大昔を思い出す。子供のころ通った銭湯は、色んな人がいた。当然、刺青の人も居たやろうし、皮膚病の人も居た、でも銭湯はそれが当たり前だったのである。増してや温泉は色々な疾病に効能が有る訳で、その目的の人を拒否するものではない筈。
当時、刺青は地域の文化とは言えないまでも、それ程の違和感は無かった。僕のあの頃の不具合と言えば水虫をもらった事位かな。

他方、現在、全く異なる人種の人達が日本の温泉に押し寄せてきている。
海外での生活が長かった自分にとっても驚きの現象である。東洋人、西洋人を問わず自分の裸を公衆の前で晒すことは彼らの文化に於いて極めて異例なのである。
今や、そんな旅行者が日本の温泉を目指してやって来る、これは極めて驚嘆すべき現象と言わざるを得ない。ある種の挑戦と言うか勇気が必要な行為である。


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今、日本人を含めツーリズムは、物見遊山型から体験型に変わってきている。特に諸外国からの人は、貪欲に日本固有の文化を体験すべくやって来る。

その真新しい体験をSNSで発信し、情報を共有した人たちがそれに感銘して、類が類を呼びこの場所に行きつくと思われる。
日本人が発信する情報では無いと言うころが興味深い。
道後温泉でも、団体客は殆ど見なかった。繰り返すが、形態が団体から個人旅行に変わってきている。
当然、彼らは温泉のルール等も、事前にブログ等を通じてかなり熟知しており、先ほどのドイツ人もしかりである。
刺青で入れる温泉、と言うタイトルのブログも多々公開されていて、関係する人にとっては貴重な情報源であろう。
尤も、ブログ等の情報には過ちも多い。中にはそれでトラブルを起こす人も居るやも知れぬ。
そこで受け入れる側には “おおらかな思いやり” が求められるのかも知れない。

おもてなし、と言う言葉が余りにもサービス産業で独り歩きしているように思える。僕はその言葉が余り好きではない。英語にするとホスピタリティ、サービスのプラスαと一般的には解釈されるようであるが。
この言葉の持つ意味はもっと奥ゆかしいものではないか、と思う。声を大きくしてこれはおもてなしです、とアピールする類のものではないと思う。
他方、我々受け入れ側の日本人の感覚はどうか、と言うとネットなどの書き込みを見る限り、残念ながら世界の流れに逆行するようなご意見が多々有るようである。
特に、刺青に対するアレルギーは深刻かも知れない。
日本古来の刺青と、西洋の文化に根差したファッションであるTATTOOは別物、と言う理解は出来ないものか?

翌日の朝、道後温泉駅まで散歩に出かけた。
この小さなターミナルである駅周辺は、まるでメルヘンの世界の様。沢山の観光客が既に駅の周辺にたむろしていた。


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湯籠を手にし、ホテルの浴衣を羽織った外国人、駅の前から続く商店街の入り口では猫が観光客を出迎えている。別に愛嬌を振りまいている訳ではなく唯、店先で座っているだけ。まさに猫と言うべきか。
坊ちゃん列車のピーッと言う汽笛に集まる人達。


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とにかく、ここは平和である。それが一番かも知れない。

 

瀬戸内海、ある島の現実


瀬戸内海、ある島の現実

3軒に1軒は空き家、その又半分は持ち主の居ない廃屋。人口は減少の一途を突き進んでいる。そんな中、空き家で崩壊寸前になっている家屋の負担が重く家主にのし掛かる。
これは現実としての負の遺産であり、結果として過疎の島を更に苦しめているのです。
瀬戸内海でも一部では芸術祭などを通して、脚光を浴びている島々もあるにはあるが、現実にはニュースになることが滅多に無い島が殆どではないでしょうか。


今回の場合は、島に住んで居られる方の話ではありません。更に深刻なケースなんです。相続して家主となっている丈で、実際には住んだことのない人の戦いなのです。
我が友人の場合を直視してみようと思います。

スケッチは、土蔵の塀、門、そして風呂場を解体した時に描いたもので、突当りが細路地、正面の家は、他の廃屋となっています。


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家主である友人は、勿論かなり高齢でおられます。随分前に亡くなられた奥さんの実家を引き継いでいる訳です。この築90年以上になろうと言う邸宅。
今、彼はこの紛れもない負の遺産を将来引き継ぐであろうご子息の為に、少しでも負担を減らそうと努力を始めました。
折しも、7月の広島を襲った豪雨災害は、元々崩壊寸前のこの空き家に更なるダメージを与えたのです。敷地の前の細路地を通る島民の方から瓦がずれた際に予測される崩落の危険性を指摘され、遂に危険部位の解体を決意するに至ったと言っておられました。
以下、自分の体験した事実を記述します。

① 準備
大八車が通れる丈の道幅の細路地、車が入る道路から50m程入って行くと、邸宅が右側にある。
路地の左側は廃屋らしい。
崩れかけた門をくぐると中は足の踏み場のないくらい瓦礫や、樹木の根っこが敷地の中散乱していた。風呂場の際には大八車の車輪が二つ立てかけてあった。直径は80センチ位、勿論木製であるが非常に重い。鋳物の軸受けと、スチールベルトのわっぱが重さの原因と思われた。


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解体前の画像左下にそれが写っている。足元は既にかなり整理されている。
当日は、主に解体するにあたっての準備作業。邪魔な樹木の伐採と、庭に散らばった瓦礫や瓦の除去作業に終始した。友人は、事前にかなりの準備をしていたらしい。

② 解体
彼の友人達、自分を含め5人がボランティアで集まった。うち一人は大工さん、一人は樹木伐採のプロである。
瓦を降ろし、壁をジャッキで引っ張って崩す作業。言葉では簡単だが、極めて厳しい作業である。降ろした瓦を運んで庭の隅に積み上げ、瓦礫を土嚢袋に詰め込む作業が非力な自分の仕事。


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画像では、既に門と土塀は解体されており、風呂場の解体作業中。
奥の一段高い納屋は、今回の予定には入っていないがいずれ解体するのや、と言っていた。左手は母屋である。右側が唯一この家に来るための細路地で、一輪車程度しか通れない。


③ 解体後の瓦礫、廃材の搬出
風呂場の外壁を一部残して、解体は取りあえず終了。
後に残った夥しい瓦礫と廃木材。そのうち廃木材を細路地を通って車道に止めてある軽トラに乗せる。


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画像は、大体最初に挿入したスケッチと同じ時刻のものである。この日は、横浜から彼のご子息がかけつけ、主な作業をこなしておられた。

車で20分程の所に、福山市のクリーンセンターがあり、其処まで運びこんでその日の作業は完了した。

④ 其の後
後日、友人とそのご子息はレンタルの2トン車で、瓦、瓦礫を袋に詰め、知り合いの業者の廃材置き場に運び込んだそうである。
これで第1ステージはほぼ終了。
一体第何ステージまでこの作業は続くのか、更に友人の戦いは続く。

京都伏見と日本三大酒処

〇元来、日本酒には興味が無かったのだが、昨年、東広島市西条の酒蔵案内ボランティアを始めて以来、他のアルコール飲料であるビール系や洋酒系などと較べて、それは非常に日本の歴史、文化に深く根付いている事を学んだ。

 


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それぞれの地域で、独自の進化を遂げた日本酒。その性格上、日本三大酒処の定義も地方によって異なり、西条を三大から外す場合もある。大吟醸酒のパイオニアは何処なのか、等も同様である。それぞれの酒処にはそれぞれのプライドがあり、それはそれで致し方ない事と思われる。

〇ここでは日本三大酒処とは灘、伏見、そして広島県の西条とする。
これは、生産量の順位ではない。有名な酒処の順位である。
西条の酒を全国から来られるお客さんに紹介する為にも、灘と伏見は是非見ておきたいと思っていた。
今年の一月には灘五郷の一つ魚崎郷の白鶴酒造を訪れた。日本最大の酒造会社である。今回の伏見を含め、これで三大酒処を全て訪れたことになった。西条は地元なので。

 

〇2018年9月8日、雄琴温泉から広島への途中、伏見の酒蔵に寄り道した。近鉄京都から急行で10分、桃山御陵駅で降りる。降りると直ぐに商店街が西に続く。数十メートルほど行くと京阪電鉄の線路を横切った。珍しい。これは市電ではなく大阪に行く大手私鉄の線路、それが商店街を突っ切っている。勿論、踏切はある。
駅でもらった地図を頼りに更に百メートルほど行って左手方向へ。直ぐに黒塀が現れ歴史の空気を感じる道路に。見事な犬矢来をあしらった月桂冠大倉記念館へ行く。
(大倉、とは創業者の名前)
西条酒蔵の白壁、なまこ壁はここでは見られない。又、レンガの煙突は低いが一カ所蔵越しに見える。西条のような高い煙突が林立している光景は見えない。

記念館は入館料400円、灘の白鶴記念館は無料だったので高いと思った。でも入場券と引き換えに渡された特製純米吟醸酒(精米率60%)のワンカップが素晴らしかった。
容器は、卵型、キャップがおちょこになっていて、中には別のねじキャップが付いている優れもの。


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急に見方が変わって、すっかり月桂冠ファンになってしまった。今でも捨てられずに本棚に飾ってある。中身は勿論空やけど。そして、家での晩酌は月になった。

煙突の有る広い中庭、展示室や事務所、休憩所などが取り囲み、仕事の人の往来が激しい。昼前の慌ただしさを感じる時間帯。女性従業員に声を掛けて3人の写真を撮ってもらった。アッツと思った。こちらは配慮足りず、彼女は両手に荷物を持っていた。

「少し待ってください」

と笑顔で答えて事務所に荷物を置きに行った。
非常に気持ちの良い応対であった。
教訓、シャッターを押して、と頼むほうは、必ず相手の両手が自由であることを確認すべき。


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〇堀川沿いに歩き、坂本龍馬ゆかりの寺田屋へ。昔伏見城のお堀であった濠川沿いに、十石船が係留されていた。観光客用である。ここは水郷で、風致地区、さぞかし優雅なクルージングであろうか。
大きなしだれ柳が川沿いに漂い、向かいの酒蔵の黒塀と良いコントラストを成している。ここが、伏見の紹介で頻繁に出てくる絶景である。春は勿論見事な桜並木で彩られるはず。今は殆ど緑一色だが。


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宇治川桂川に挟まれて、堀が縦横に巡っている水郷地帯。江戸時代、三十石船はここから淀川に入り難波津から樽廻船で伏見の酒を江戸に運んだ。

寺田屋の周りは結構な人だかりで、写真を撮っている人も多かった。
とにかくこの辺り一帯は観光のメッカなのである。単に景観を人為的にいじっているのではなく歴史文化の礎の上に今も生きている世界。単なる見世物ではない世界。今日初めてこの地を訪れたのだが、素晴らしかった、の一語に尽きる。

寺田屋から桃山御陵駅に帰る途中、黄桜カッパカントリーを発見。道路と道路の間を通り抜け出来るように広場を配置した、黄桜のオープンカフェである。


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黄桜酒場に入って地ビールを飲むことにしたが、店内はほぼ満員。奥は見学室への上り坂の通路で、長いベンチが置いてある。

「あそこ、座れますよ」

と店員さんに笑いながら言われた。
でも坂の途中で傾いている。余り座り心地が良いとは思われない。中庭に出ることにした。
雨の後であったが、幸い椅子は渇いていた。テーブルやベンチが程よい感覚で配置されている。


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昨日買った大きめの三本のソーセージをつまみに、京都ビールを飲む。これが三人の昼食も兼ねることになった。

黄桜酒造は歴史が90年ほどの若い会社らしい。
多角経営で、地ビールをはじめレストランなど多角経営。日本酒の持つ歴史と調和させたきれいな施設の酒造会社で、近くの酒蔵では、実際に稼働している工場見学もできるそう。

〇他の二人は、大阪方面に帰るので、京阪の駅、即ち商店街とクロスして走る踏切際の伏見桃山駅で分かれた。
尚、ちなみに鉄道は、近鉄桃山御陵駅東側をJRが走っている。そちらの駅は桃山駅と言う。
鉄道3本が南北に走っていることになる。
その東側の丘陵地帯が海抜100mの桃山丘陵で、伏見の酒を支える伏流水の源である。

〇西条酒蔵との比較を自分勝手にすると、こうなる。
圧倒的に巨大な灘、伏見の酒蔵。
兵庫県京都府丈で日本の全生産量の約半分を占める。
(年間約20万キロリットル、日本全体では約40万キロリットル。他方、広島県の生産量はと言えば、年に約1万キロリットル)

では西条は一体何が違うか、何が有名なのか。端的に言えば駅前から酒蔵が始まり、しかも僅か650mの範囲に、有名な蔵が6社あり、各社それぞれ異なる伝統、特徴、味を持ち、又赤煉瓦の高い煙突が12基現存している事等である。白壁となまこ壁も特徴かな?
日帰りで、徒歩でこれらは余裕をもって見学することができるのである。
灘五郷は東西12キロ以上に及ぶ。

中四国、関西再発見の旅、これからも!