鞆の浦と牛窓、朝鮮通信使ゆかりの浦

鞆の浦牛窓、どちらも朝鮮通信使ゆかりの港町。歴史的に朝鮮通信使を介して、似たような歴史を辿った岡山県瀬戸内市牛窓と、広島県福山市鞆の浦
現在、旅行者が急増している鞆の浦と、逆に寂びれつつある牛窓との比較を乏しい知識を駆使して整理してみました。高台から見下ろした両港の俯瞰絵図をまず見てください。


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牛窓港、手前から奥に伸びる700メートルの波止が印象的。

港東側高台にある荒神社から

 

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鞆の浦、右手中央の波止から港をぐるっと取り囲むように架橋が計画されていた。

山腹の医王寺から

 

〇似ている要素
瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦。1000年の歴史を持つ重要な汐待の港であり、今は景勝地としても有名である。過去何度も来たことがあるが、今年の3月に訪れたときには随分と以前とは様変わりしていた。旅行者、特に外国の人が多かった。これは昨今、日本のどこの観光地でも見られる傾向と思われる。
福善寺(ふくぜんじ)の対潮楼、高台にある真言宗のお寺の一部。海側に張り出して設けられた大広間で拝観料は200円、靴を脱いで海側への細い通路を行くと大広間で、突当りはほぼ全幅の見晴らし台になっている。「日東第一景勝」と、300年ばかり前、朝鮮通信使一行の従事官が筆にしたためた見事な景観が広がる。柱と梁とが長方形の額縁となりその中に瀬戸内海を背景にした仙酔島弁天島が絵のように収まっている。


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この福善寺は朝鮮通信使の高貴な方、即ち三役の為の迎賓館として使用されたらしい。


同じように通信使の宿泊場所となった牛窓の高台にある本蓮寺境内からも風光明媚な瀬戸内海を眺められ、この点も鞆の浦と事情は似ている。
現在にいたるまでどちらの地にも鉄道は通っていない。江戸時代には元々鉄道が無かったわけで、海路が中心だった時代故、鉄道網が張り巡らされている今の時代と較べると当然色々な面で不利な情勢となっている。


〇風光明媚な瀬戸内海の浦を通信使の宿泊先として選んだ背景
当時通信使の人たちは何を思って江戸に向かったのであろう。道中は各藩、特に対馬藩などで警護され又いろいろなもてなしをしたのであるが、あくまでも目的は江戸幕府への挨拶を兼ねたご様子伺いであったはず。
個々の人々の思いは、長い道中や遠い祖国に残した家族の安全祈願、であったと思う。江戸に行きたくて随行したものは一部を除いて居たとは思われない。さらに難波津からは厳しい陸路だったので、この瀬戸内海は歩く必要のない彼らにとっては唯一の心休まる道中、ではなかったか?
尤も、江戸幕府がこの区間の陸路を認めなかった、と言う背景もあるらしい。


〇違う要素
港での違いと言えば先ず、雁木(がんぎ)構造の船着き場が、牛窓には無くて、鞆の浦にはあると言う事。雁木とは、階段状に造られた岸壁で、潮位の高さに対応して舟が接岸できるようにしたものである。


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牛窓では、雁木の必要が無かったと言う事かも知れない。
瀬戸内海の潮の干満に両者では大きな差がある。瀬戸内海の真ん中付近、広島の笠岡諸島から芸予諸島にかけては潮の干満差が4メートル前後に達するのに対し、牛窓では2メートル前後と、半分の潮位差になっている。舟の接岸が容易なように、前者では雁木構造の岸壁が多くの浦で見られる。
次に、牛窓はマリンスポーツのメッカであり、ヨットマン憧れの海だそうである。又、山側には有名なオリーブ園があり、沢山の観光客がシーズンには訪れる。牛窓の南には海水浴場で有名な前島が有り、牛窓港からフェリーが頻繁に発着している。港の俯瞰絵図を見ても、鞆の浦と較べて洗練され沢山の綺麗なホテルが見られるし、海にはヨット、そしてホテルリマーニュの周辺では街路樹はヤシの木を中心に良く整備されている。
鞆の浦が歴史を中心に良く保存されている浦であるのに対し、牛窓は地中海の明るい雰囲気が漂う。
でも先日牛窓を訪れて思ったのは、地理的な要因が多いけれど、人の流れがあちこちで途切れて、中心地であるべき牛窓港までなかなか人々が来てくれなくなったと言うことであった。
有名なオリーブ園を訪れる人は多いが、別に牛窓港までくる必要は無いし、マリンスポーツの人は、陸に上がる必要が余りないのかもしれない。美術館は港から結構離れていて、歩いて散策するには少し遠い。備前焼の本拠地も近いけれど、ここは備前市ではなくて瀬戸内市である。
一方、鞆の浦は、昨今沢山の旅行者で潤っている。多様な歴史遺産が港を中心にコンパクトに集まっている。牛窓と較べ山にぐるっと閉じ込められた狭い空間に殆どの施設が有るので歩いて当然坂道は多いが、距離は知れている。歩いて移動する旅行者にとってこれは魅力なのである。要は、わかりやすい、と言う事か?
過日、鞆の浦架橋が広島では大きな話題となった。町の中を通る狭い交通量の多い県道の危険な状況を避けるため、港の海側に架橋すると言う計画が殆ど決まりかけていた。それは目の前の課題を改善する効果はあったが、結局、歴史的な景観を優先して、県知事は山側にトンネルを通す事で最終決着させた。住民の多くの要望は橋であったそうである。だが他方、取り返しのつかない歴史遺産の破壊がかろうじて防げた、と言う事でもある。
歴史的な遺産の保全は、今住んでいる住民の方の犠牲の上に成り立っているとも言える。これはジレンマであるけれど、鞆の浦に限って言えば、昨今の観光客の増加は、歴史的景観の保全が住民の方にとっても結果的には正しい選択であったと言っていいと思う。


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港を囲う防潮堤の辺りに巨大な架橋が計画された。景観が失われるとの大局的な観点から中止された。


対照的に牛窓は、近代的な文化を取り入れて発展してきた港である。岡山県の総合的な長期復興ビジョンがここに有れば、美しの窓と言われた牛窓には必ず未来に向けた可能性が有ると思う。バスターミナルやメイン道路に沿って、営業を辞めた食堂などの廃屋が多々見られた。それらは早急に整理して、緑地にでもしないといけない。車で来る客はともかく、わざわざバスで来た旅行者を着いた途端に幻滅させるような要素は先ず取り除かねば! 町中の案内図も無かったように思う。


〇前回、牛窓については別のブログでも紹介しているので、今回はどちらかと言うと鞆の浦が主体の記述になってしまいました。